「家糸プロジェクト」のはじまり
まるで、名作絵本 『ちいさいおうち』が、そっくりそのまま飛び出してきたかのような佇まい。僕が、そのお家のことを知ったのは、インスタグラムに投稿された1枚の写真がきっかけです。
ところが、昨春に主を失ったそのお家は、間もなく取り壊されることが決まっていました。カタチあるものは、いつか失われることが宿命とはいえ、そこで4番目の孫として育った村上萌さんには「残したい」気持ちがありました。
僕はすぐに、日本の『ちいさいおうち』のような絵本をつくりませんか、と声をかけました。絵本であれば、また次の100年も語り継いでいくことができる。これが「家糸プロジェクト」のはじまりです。
物語のテーマは「大切なこと」
東京は田園調布の、閑静な住宅街。なかでも一際存在感のあるお家は、有形文化財にも登録された築100年の洋館です。その長い歴史の、限りなく最後に近いゲストとして、僕は招かれました。
お家の中を案内しながら、彼女はおばあちゃんとの思い出を、ひとつひとつ宝箱から取り出すように、語り聞かせてくれました。
そこで暮らした家族の物語には、子どもたちに語り継ぎたい「大切なこと」が、たくさん散りばめられていました。彼女のお話を、できるだけ素直に、そのままの温度で、絵本にしようと決めました。
お家のその後と、サンドイッチ屋「GARTEN」
壊されてしまったお家の一部は、もうひとつの「家糸プロジェクト」として、村上さんが運営するサンドイッチ屋「GARTEN(ガルテン)」のオープンに合わせて、田園調布から青山まで運ばれました。印象的な淡いグリーンの窓枠は、新たな場所でも大きく開かれ、以前と同じようにお客様を心地よく招いてくれます。
「お天気のいい朝、庭に出てサンドイッチを食べる楽しみを教えてくれた」おばあちゃんは、「足りないものがあると、ハーブやフルーツはそこらへんで摘んできて、 ささっと添えてくれた」そう。この場所もまた、語り継ぎたい大切なことがあふれています。
物語の導入(仮)
爽やかな5月の北海道から届いた手書きの原稿は、「迷うことなく、文(ぶん)は完成しました。」と村上さん自身がいうように、次から次へと言葉があふれてきたことがわかるものでした。ほとんど消した後すらなくて、最初から最後まで、まるで書くことが決まっていたかのようなそれをみて、僕は大きな編集は必要がないと判断しました。
ありさは、はるの おひさまの ひかりと トーストの こうばしいかおりで、めを さましました。まっさきに となりを みると、やっぱり おばあちゃんの ふとんは、からっぽに なっていました。リビングに おりると、ふたりぶんの おさらと ティーカップが、よういされていました。ありさは、すこし おとなになったみたいで おとまりした あさのじかんが、だいすきでした。
物語と相性の合う絵
絵本は「絵と文の総合芸術」だといいます。ひとりで絵と文を描く作家の場合は「相性」を気にする必要はありませんが、絵と文の描き手が違う場合、それは重要な条件のひとつになります。この物語に合うだろう何名かの画家候補を見つけて村上さんに相談したところ、「一緒にやりたい人がいる」と推薦されたのが、イラストレーターの湯浅望さんです。
絵本の絵は、1枚もののイラストレーションと違って、15枚が揃ってはじめてひとつの作品になります。それぞれの場面は、最初から文が入ることを想定して構図を決めなきゃいけないし、ページをめくる方向にあわせて、物語の時間軸を考える必要もあります。文で言えば行間と同じように、ページ間を「語る絵」が描けなければ、物語の世界に奥行きはでないでしょう。何より子どもが好きになってくれる絵を描くというのは、「上手」とは全く違う性質のものです。
絵本の絵を描ける人の条件
1ヵ月待っても、2ヵ月待っても、ラフの1枚もあがってこないのをみて、僕の不安は的中したと思いました。余裕をもってスタートした制作時間は刻々と短くなっていきます。いよいよ3ヵ月を過ぎて、ダンドリの調整も限界にさしかかった時に、湯浅さんが物語の主人公になりきって、実際の街を散策して歩いていたことを知りました。
それを聞いて、湯浅さんは絵本の絵を描ける画家だと確信しました。絵本を描く上で、デッサン力よりも遥かに大切なこと。それは物語の世界を知ることです。作家が世界の隅々まで知っているからこそ、物語にリアリティが生まれる。リアリティのある物語は、子どもをあっというまにその世界へ誘うのです。
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