自分で考えることが「科学」

自分で考える人は「詩人」であり「科学者」

 

自分で考える、それ自体が「科学」なんだ、と教えてくれる大人が身近にいる子どもは、きっと自然に勉強が好きになると思います。もちろん、本当の意味での勉強で、無理やり正解を詰め込むような勉強ではありません。

考える過程が一番おもしろくて、学びが大きいのだから、正解を知らないというのはすごく楽しいこと。
どうして雷が鳴るんだろう、どうしてトマトは赤いんだろう――世界は不思議でいっぱいで、自分で考えた答えを持っている人は、まさに「詩人」であり、「科学的」です。(自分なりのトマトが赤い理由を語れる人は、エンブックスにご連絡くださいね、そのまま絵本ができるかもしれません)

最近話題になる絵本の多くは、ノウハウものや知育ものばかりで、僕はちょっと気がかり。子どもが自分で選ぶとは思えない絵本ばかりです。大人は子どもに正解を用意するのではなく、考えるきっかけを与えることが大切です。

 


以下、『言葉の力 人間の力』より抜粋
語り手:中村桂子(生命誌研究館 館長)

 

 生命誌研究館にお越しの保育園の先生が、(中略)「生きているってどういうことだろう」と問いかけられて、「植物は生きているだろうか?」と子どもたちにきいたのだそうです。ほとんどの子は頭で理解しているのでしょうね。「植物だって生きものだよ」と答えたそうです。
 ところが、一人だけ「植物は生きものではない」と主張する子がいたんですって。先生としては植物も生きものだということを言いたい。でも、その子は「だって、動かないのに生きもののはずがない」と主張したといいます。

 (中略)ある日、外で草取りをした時に、草を抜いたら、根っこのところから少し水が出てきた。するとその子はそれをみて、「ああ、植物って泣くよ! やっぱり生きているんだ」と言ったというのです。
 根から出た水はもちろん涙ではないし、科学では、「生きている」ということはそんなことで判断するのではありません。でも「あ、生きているんだ」とまず思うこと。そう実感して、そこからだんだん、三年生、四年生になった時に、いろんなことが解ればいいのです。私は、五十人いる保育園児の中で、この子が一番、ある意味で科学が解る完成の持ち主だなと思いました。

 ただお母さんは、みんなが「植物も生きものだ」とすぐに解っているのに、うちの子はなかなか解らないと心配する。今の世の中では、知識として教えられれば疑いもなく納得して信じることがよいと決められがちです。
 科学者としての私は、(中略)この子をとってもすてきだと思ったんです。

 自分で観察したことから答えを自分で見つけて出す。科学って正しい必要はありません。(中略)間違えていても、自分で考えたことをきちんと言って、それがまた次に新しい発見につながる。
 (中略)科学はきちんと見て、きちんと考えて、「こう思います」と言えばよいのです。(中略)十年経ったらあれは間違いだったということになったとしても、とても意味のあることを言うことがある、それが科学なのです。

 ただ、その時に、「きちんと見て、きちんと考えてある」ということが条件です。(中略)でたらめではいけない。それなら、たとえ間違えても、とても意味のある間違いになるのですね。だから科学は正しいことを言うことではなくて、よく見て、よく考えることなのです。

 その子は、ほんとに周りが全員そうだと言っても、自分は自分で見て納得しないとそうだと言わない。しかも、植物は生きものじゃないと言っていたのに、自分が見て、根から水が出てきたら、「泣いているんだから」、と答えを訂正する。まさに「詩人」であり、「科学的」です。

 


『言葉の力 人間の力』

著/松居 直、中村 桂子、舘野 泉、加古 里子
定価/1650円(税込)
佼成出版社
2012年7月25日発行

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