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村上隆の五百羅漢展レポート


巨大なキャンパスと五百のパワー

五百羅漢にお参りするつもりで、大晦日の夜に出かけた「村上隆の五百羅漢展」。
そんな日に東京のど真ん中にある森美術館が混むはずもなく、まるで本当にお寺参りをしているような静かな空間です。そりゃそうだ、なんという贅沢。

羅漢(阿羅漢)というのは、悟りをひらいた者のことで、仏さまとは違って生身の人間。だから、こっちも等身大で向き合います。

  1. 如来(にょらい)
  2. 菩薩(ぼさつ)
  3. 明王(みょうおう)
  4. 天(てん)
  5. 羅漢(らかん)
  6. 高僧(こうそう)

空いているのを良いことに、ずらっと並んだ羅漢の顔を、左の端からひとつひとつ見ていきます。どれもアタマはでこぼこだし、あっち向いたり、こっち向いたり、ひとりひとりはまるで不安定。
でも、一歩、二歩とひいて見れば、不思議とそこにあるのは確かな安心なのです。ああ、僕たち人間というのは、まさにこういうものなのかもしれません。

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新しい芸術へのチャレンジこそ尊敬されるべき

そして、また寄ってみれば、強烈な色彩と緻密に並んだ幾何学模様が、僕の脳を揺さぶります。不安と安心の渦の中で、「なんだこれは!」と思います。

芸術の長い歴史のなかで、今がどんな時代なのかは、あとから生まれた人間が決めること。村上さんがやっていることは、まさに新時代の創造です。だけど、その表現は決して奇をてらったものではなくて、脈々と受け継がれてきた日本美術という伝統の上にある。たどり着くべくしてたどり着いた場所というのでしょうか。
僕たち鑑賞者にも知識という名前で、そうしたDNAの一部は受け継がれていて、だからこそ観ていておもしろいんですよね。

最先端の五百羅漢の表現が目の前にあって、僕は500年後にこの絵を眺める誰かを想像しました。誰がどんなふうに今日のことを語るんだろうと。

古きを知り新しきを知る

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例えば箔押しは、日本画の伝統的な技法です。よくみると金箔の上に無数のドクロが浮いて見えます。そんな金箔見たことがない。
尾形光琳が「紅白梅図屏風」を描いた当時(18世紀)は、その中央に流れる水は銀色に光りを放っていたといいます。技法にしても、構図にしても、当時の人たちにとっては、やはり「なんだこれは!」だったことでしょう。

新しいものが生まれるって、そういうことなんですよね。光琳の技法が未だに諸説あるように、画家はいちいち新しい技術の説明書を残しません。ただ、圧倒的な凄みをもって作品を完成させる。何が新しいかの答えは、絵の中にあるんです。

だから、好き嫌いにこだわらず、良いものをみなくちゃいけない。村上さんは芸術の世界における羅漢。羅漢に対する尊敬と、村上さんに対する尊敬をもって、次の素晴らしい1年につなげたいと思います。